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震災ボランティア報告3(気仙沼編)

関 口 康 夫

2011(平成23)年3月11日(金)14:46 東日本大震災(東北地方太平洋沖地震/気象庁)マグニチュード9.0 私は、ちょうどガイドヘルパーの終了間際、某団地の4F・階段でこの巨大地震に遭いました。大変長い地震だったと記憶しています。その30分後、T S U N A M I・・・T S U N A M I・・・T S U N A M I・・・被災された方々へ、こころよりお見舞い申し上げます。今回、千葉県連で災害派遣ボランティアの呼び掛け情報を知り、さっそく山の仲間らとともに参加しました。4月末でもまだ余震が続いていますが、すでに現地では復興に向けて地域の方々は行動していました。

日 程:4月16日(土)〜17日(日)
 2011年4月15日(金)津田沼CIT22:00発
作業内容:ガレキの撤去作業、家財道具の運び出し
参加者:仲里夫妻、陶木、関口の4名、4/16PMより石川と合流
持ち物:ヘルメット、雨カッパ、登山靴、作業手袋など

■4月15日(曇り):津田沼から湾岸〜東北自動車道へ。計画停電の影響だろう節電のため、街灯も消灯し全体的に暗いけど渋滞もなく、安達太良SA翌日2:00着。ガソリン満タン後、エリア内の空き地にてテント泊、私だけ静か〜にかけつけ三杯後、消灯なり。

■4月16日(晴れ時々小雨):安達太良SA6:00発 JR気仙沼駅にてタクシー運転手に唐桑方面の道路状況を伺い、気仙沼バイパスから東浜街道を経由し唐桑半島のレストラン「海岸亭」駐車場11:30着、番犬のサチコさんが迎えてくれた。広いスペースの駐車場の中央に『栃木県勤労者山岳連盟 救助ボランティア受付』という看板が張り出した大型の本部テント(テーブル、ベンチ、ガスコンロ、プロパン、その他)の前で昼食をとり12:30頃、ちば山の鶴田氏に案内され、車で7〜8分後、現場で栃木県連・ちば山の方々と合流(全員:15名)することができました。現場は、鮪立(しびたつ)地域。ここはマグロ一本釣りの発祥地(記念碑有)でした。大変入り組んだ地形(崖端)の漁師さんの家屋・作業所で土台のみを残して瓦礫の山状態。すぐ脇の高台には、守護神の祠があった。午前に引き続き瓦礫の分別(木材・トタン・ガラス・家財道具など)でした。重要な家財はすでに持ち出されていたので、釘やガラスなどでケガをしないようにした。作業は14:00頃、雨が強くなってきたこと、ユニックで屋根取り付け作業の目途がついたことで、今日の作業をすべて終了し本部テントへ戻りました。夕暮れには、まだ陽が高かったので景勝な唐桑半島の御崎岬沿いの歩道を少し散策しました。陸前高田方面の海上には自衛隊の艦船、ヘリが行方不明者の捜索が行われていた。本部テントから散策路を下ったところからは、海上に塔状の岩が見えた。説明によると『折石ORIISI前にそびえる石柱は、高さ16m・巾3mの大理石で明治29年(1896)三陸大津波の時先端が2m程折れたことから折石と呼ばれている』と記されていた。他に、高村光太郎の記念碑や津波体験館等があった。帰って夕食前に本部テント内で、自己紹介と簡単な懇親会をしました。船山の今晩の夕食は、敬子ちゃんが腕を奮ったカレーと昼間とってきたタラの芽入り少しだけ贅沢な夕食でとっても美味かった。夜は、海岸亭2Fの三十畳ほどの大広間(天井が全部抜け落ちていました!)をオーナーの方が快く解放してくれました。畳の上で雨・風を凌げてゆっくり寝ることができました。ありがとうございました!

■4月17日(晴れ):起床5:30 昨夜も余震があった。千葉県で受ける感覚と違い怖かった。気分転換に朝の散策にいきました。8:40 本部テント前にて朝礼。トラックには脚立、チェーンソー、ネコ、発電機、大バールなど積み込み。今日の作業現場、内容及び安全のための注意事項を全員で確認したのち、9時前に出発。ここから10分ほどの網元の立派な家屋(村上 邸)、津波は屋根の上(18mくらい?)まで達したそうです。周りでは陸上自衛隊の災害派遣隊の方々が、重機を使って瓦礫作業をされていました。

作業は家財道具(2Fの布団、本、アルバム)の運び出しでした。到着したら、すでにユニック付の2tトラックが庭先にあり、段取りいいな・・・と思ったら、なんと港に駐車してあったトラックが津波に押・引きされながら20〜30m先の網元の玄関先まで網が収納されていた小屋ごと流され、押し寄せてきたものだった。到着後、すぐ家主から家財搬出の内容の説明がありました。人海戦術のため、2F組と1F組に分かれ、途中階段に数人を配置しながら安全に搬出作業ができるように工夫しました。陶木さんと私は、2F組へ。納戸は床板が外れ、足の踏み場もないくらいに海水をたっぷり含んだ布団や毛布、座布団、洋服が散乱していた。さすが網元だけあって枚数が半端じゃない。南側の部屋の書籍は、暗闇のなかヘッドライトを使用して本棚のなかで膨らんだ本を搬出した。とくに、大切なアルバム類は慎重に運び出しを行った。午前中でほぼ家財道具の搬出作業は、終了しました。午後は網の搬出の予定でしたが、高台の土筆の原っぱで昼食後、私たちは栃木県連とちば山の方々に挨拶をして、帰路に向かいました。途中、気仙沼港に立ち寄り、無残な瓦礫の山や大きな船体が道路上に乗り上げたり、普通車が屋根上に残置されていたり、炎上した真っ黒な船など。被災の規模の大きさに圧倒されて言葉が出ませんでした。でも参画したことで、少しでも地域の復興の一助になれればと思います。チャンスがあれば、また行きたい・・・。

最後に、本部テント駐車場の公衆トイレの壁には、青色のポスターで『津波用心 明治三陸津波(石浜8.5m)について、1896(明治29)年6月15日19時32分に三陸はるか沖でマニチュード7.6の地震が発生しました。地震は、震度2〜3程度のゆるやかな振れであったと記録されています。津波は地震後約35分で三陸沿岸に来襲し、死亡者845人(唐桑)一瞬にして数多くの尊い生命と貴重な財産を奪いました。岩手県吉浜村で24.4m 綾里村38.2mに達したとされ、溺死者は約22,000人(正確には22,066人)の被害がでました。地震⇒高台へ避難 』が過去から貼ってあり、日常生活の中で地域住民や観光客らに津波の恐ろしさを警鐘している・・・・・・。

【参考データ】

費  用:高速代他8,100円/人
夕食・朝食代500円/人
合計8,600円/人